その人の父親は、胃癌で死んでいた。享年57歳。彼は、不動産事業に成功して、財を築き、1970年代はじめに、PL検診センターにVIP会員として150万円払って入会した。渋谷のマンションが1000万円しない時代に、150万円は大金である。しかし、胃癌で死んだ父のことを考えると、事業で成功した43歳の彼にとって、150万円は納得できる金額であったのだろう。まじめな彼は、以来、半年に一回、一回も欠かすことなく、検診を受けた。胃の検診はずっとバリウム造影検査で行われていた。

 

 1990年ごろ、60歳前半の彼は、便潜血反応が陽性となり、PL検診センターから、大腸内視鏡検査の目的で、私に紹介された。大腸内視鏡の結果、大腸腫瘍が5-6個見つかり、すべて内視鏡的に切除。彼は私を気に入ってくれ、奥さんも私に紹介。奥さんにも大腸ポリープが見つかりと彼ともども、1-2年に1回大腸内視鏡の検査を行っていた。

 

 2001年、しばらく顔を見せていなかった長身の彼が、突然ふらりと来院して言うことには、「先生、いつもしている、半年に一回のPL検診で、先日、5センチの潰瘍が一つあるから、胃の手術をするようにいわれました。ほんとに切らなければならないのか、診てくれませんか?」と。さっそく、上部消化管内視鏡検査(通称、胃カメラ)を実施。胃体部後壁に、ボールマン3型の5-6cm大の大きな癌がある。さらに驚いたことには、それより少し奥の、胃幽門部後壁にも、約4-5cm大のボールマン3型の癌があった。ダブル胃癌である。半年前の検査で見つからなかったというのが不思議なくらい大きな2つの癌だった。まじめな彼にとって、それは、文字道理の「驚き」であったろう。なにせ、150万円(今だと1000万円くらい)支払ったVIP会員なのである。

 

 私は半年前のバリウム造影の写真を実際に診たわけではないので、断言しにくいが、後壁はバリウム検査のスイートスポットであることから考えても、半年前の胃のバリウム検査で2つの胃癌はおそらく見落とされたのだろうと思った。 PL検診センターは、毎日150人から200人もの検診を行うのだが、胃のバリウム造影は技師が行い、読影は一人の医師が担当するという体制なのであった。「S先生、一人で一日2000枚も読むんだ、きっと疲れて見落としたんだろうな・・・・。そういえば、センター長も事務長も看護師長も「保険者が安い検診を求めるから、検診原価を一円でも安くしたい。」と言っていたなぁ・・・・。そういえば、誰か、あそこの給与は相場の7割ってぼやいていたよなぁ・・・・。」

 

 私は、東大病院に、彼を紹介。彼は開腹手術を受けた。しかし、癌は既に肝臓に多発転移していた。TS1が効いて、しばらく、生き永らえたが、結局2004年夏に死亡。彼は、父と同じ胃癌で死んだのであった。胃癌の家族内集積は、単に遺伝性というだけでなく、同じ食べ物を媒介として、発癌力の強い同じピロリ菌に感染しているという環境的要因もある。

 

 その秋、奥さんが来院して、「先生方には、ほんとうに、よくしていただきました。ありがとうございました。」と涙をこらえて言ってくれた。もっと言いたかったことがあるはずなのに、ぐっとこらえた姿に、彼女の本当に深い悲しみを感じた。

 

 一般に、胃癌の早期発見率について、内視鏡検診はバリウム検診の3倍というデータが、内視鏡がまだファイバーであった1980年代からある。それが、わかっていても、バリウム検診が、いまなお、続いているのは、レントゲン技師の雇用のため、コスト削減のため、内視鏡医師不足のためである。

 

 今年も、厚生労働省はいう、胃癌の検診は内視鏡よりもレントゲンが基本と。「苛政は虎よりも猛し。」とは、中国の古いことわざであるが、現代の日本にも、通用しているのは、真に残念なことだ。